先日、息子の希望で、がん保険を扱っている保険の窓口に行ってきました。
今の息子の状態で保険に加入できるのか。
私は無理だよと言っていたのですが、息子はプロの口から聞かないと信用できないようで。
息子の場合、これから移行する可能性のある病名も多く、そのどれもがみな重病であり・・
対応していただいた女性。
聞いたこともない病名を時間をかけて調べ、電話で問い合わせをしてくれたりして、やはり返ってきた答えは「NO!」。
息子が現在入れる保険はゼロでした。
今年の4月に新しく社会生活をスタートさせ、勤務先から保険のパンフレットをもらってきた息子に、なるべく早く保険にひとつ入っておこうねと話していました。
まあ、今年中にいい保険を選んでおこうかなあ・・なんてのんきに構えていたら、あれよあれよという間にこんな事態になってしまいました。
親としては後悔しています。
息子が子どものころから共済には加入していたので、唯一それだけが救いになっています。
病気を持つということは、体を蝕むだけでなく、社会的な信用や、時には差別や区別のような扱いも受けることもあります。
病気の進行によっては、出世もあきらめざるを得ません。
近所のクリニックでは、病名を告げれば万が一の心配や危険もあり、一定以上の診察や検査を断られることもあります。
住宅ローンの団信にも加入できないでしょう。
大きな病気を背負うということは、いろんな意味で大きなハンデを抱えることになります。
今息子は、そういう壁にぶち当たって、もやもやや苛立ちがあるようです。
時折、なんだよそれ!とブチ切れていますが、それでも彼は冷静であり、受け止めていこうとはしています。
受容というのはとても時間のかかること。
そしてかかった方が、のちにしっかり安定もするというのが私の持論です。
もがいている息子にいちいちきちんと反応しながら、一気には定まらない息子の思いに肩を並べるつもりでいます。
これが私の受容なのだと、最近やっとわかってきました。
私にできることは、息子の中のもやもやが、ひとつの形を作り上げる手伝いをしていくこと。
自分の生きてきた経験を最大限に活かして。
冷静にもなりました。
息子が突然倒れたり、死んでしまうようなことを想像していましたが、それはないかなと思うようになりました。
主治医が居て、経過観察もされていく中、突然死してしまうようなことは、普通の人よりも確率が低い気がしています。
コントロールされていくわけですから。
そして、幸いなことに、普通に生活ができ、制限されることはほぼありません。
食事もスポーツも趣味も、これまでと同じでいいわけです。
ただ毎日、病気が進行しないように願うということを除けば。
これまでと同じように、息子との時間は大切にするつもりです。
息子が感動したグランドキャニオンの夕日を、もう一度一緒に見に行くつもりです。
世界のディズニー制覇を目指している息子、あとはパリと香港のふたつでコンプリートされるので、それは近いうちに実現させてあげたいと思っています。
コロナで停滞している時間ですが、私なりに動かしていきたいですね。
息子にではなく、私自身にも限りが見えてきていますから。
50歳台の後半になり、新たな重い荷を背負うことになりました。
人生山あり谷ありといいますが、本当にその通りで。
ここしばらくはのんびりと羽を休めていて、飛びかたさえも忘れていた状態でしたが、新たにまた動き出せと言われてしまったようです。
社会人の息子と共にこのマンションに移住したことも、なんだか導かれてきたような気さえします。
さて、劇場型の私の人生。
これまでは好きなように舞台で踊っていましたが、今度は主役である息子をがっちりホールドする裏方になりました。
まだまだお母さんはやります。