この世の中は、善意で成り立っているんだからね!
昨日の朝、息子に言いました。
昨日は研修だということで、いつもよりも1時間遅い出勤だった息子。
朝食が終わりかけた頃、NHKの朝ドラが始まりました。
と、そのタイミングで、私がプチっとテレビを消します。
これから身支度をするのに、テレビは不要だから。
3月までの朝は、ほぼ毎日このパターンでした。
すると息子、必ず言うんです。
「え、ちょっと見たかった~」とか「見させてよ~」とか。
朝ドラなんか、これまでほぼ見たことなどないくせに。
見る時間もないくせに。
おそらくだけど私が、「はっ?遅れるじゃん!」とブチ切れるのが面白いようなんです。
笑いながら、見たいなあ~としつこく繰り返す息子。
それに対して、何言ってんの、そんな時間ないでしょーが!と付き合うのですが、それがめちゃ面倒で。
なんだろう。
息子のことは大好きだし、素直でいい子だと思うのですが、こうしてちっとも面白くないやり取りを好む傾向があり、これに内心イラっときます。
相手がはじめはそれほど嫌がっていなくても、同じことを何度もくりかえしていけば、やがてしつこいと思われ、嫌われる。
そういうことがわかっていないんだろうか。
相手も楽しんでいると勘違いしちゃっているんだろうか。
これじゃあ、子どもと同じじゃん。
職場でも、こんなだったら困るし。
いい社会人なんだから、相手が難色を示しているかどうか、きちんと感じて悟った方がいいよと、昨日ははじめて言いました。
皆、顔では笑っていても、心の中は違うことの方が多いんだからね。
皆、我慢して、あからさまに嫌そうな顔はしないんだからね。
そう、世の中はそういった善意で成り立っているんだから!
先週、岸田総理の襲撃事件が起きました。
安倍元総理が襲われてから、まだ1年も経っていません。
1年間に2度も襲われてしまう自民党って、どうなのよ。
いいとか悪いとか、好きとか嫌いとかじゃなく、何かがおかしいと一度考えるみるべきじゃないでしょうかね。
もちろん、襲う方に100%の罪があるんですけど、立て続けに襲われてしまう組織にも何かしらの原因があると、振り返ってみることも必要ですよね。
どの国でも、政治家は常に発信していく側なので、同調できない人からはどうしても恨みを買ってしまうものです。
そんな中で、街頭演説をする、近づいて握手をする、話をする。
この活動って、普通に怖いことだったんだなと改めて感じました。
こいつは嫌いだという相手でも、増税ばかりしやがってと苛立っても、おとなしく話は聞く。
そう、これはずっと国民の善意と慣習で成り立っているものだったんですね。
でもね、それがきっと崩れつつあるんでしょうね。
善意に我慢の限界が来て、悪意になる。
慣習に疑問符が付き、自由と勝手をはき違えていく。
それでもまだ、マスク民族である日本人は、横並び同盟が強く成立しているので、そこからはみ出した無敵の人だけが、こうして事件を起こす。
欧米人は我慢ができなくなれば、共感した皆で波をつくるけれど、日本人は人の目が怖くてそれができず、孤独に悪意に変わっていってしまう。
声を上げずに、ただひたすらに。
国も国民も、発信力は至って弱いから。
世の中が善意で成り立っていること。
それを知らなくちゃいけない。
そして、それにあぐらをかいててもいけない。
我慢が限界になるまで、善意を装う必要はない。
でも、それでも我慢が積み重なったとしたら、悪意に進まない、何らかの逃げ道を見つけなくちゃいけない。
やっぱり、身近な人や信頼できる人に発信することって大事なんだなあ。
そしてもうひとつ。
我慢の果てには、「何事にも無関心になる」という手段もあり、それを身につけている人も多いんだろうなあと、ふと感じました。
善意の世の中でありながら、差別もいじめも争いも存在し続けます。
それをありきとするなら、悪意が生まれるのを察知して、いかにそこから逃げていくかを考えること。
善意の裏には悪意があると思うから。
自分の悪意からも逃げる。
そして人の悪意からも逃げる。
その術を、日ごろから知っておくことなんだろうなあ。
無関心になる術も含めて。
息子よ、善意って砂上の楼閣なんだよ。
善意って、甘えてたら、崩れちゃうぞ。