お盆も終わって、8月も後半になりました。
我が家にとっては、お盆というワードはあまり関係がありませんが、夫はお盆に休みをとって、しっかり9連休していました。
私は子どもたちに合わせて、9月に休みを取ります。
子どもたちの勤務先も、好きな日に夏休みを取るというシステムです。
そもそも、夏季休暇というのは、必ずしも会社が定めるべきものではないそうです。
2年前の調査では、夏季休暇を設定している企業は全体の4割未満だということ。
はあ・・そうなのか。
夏季休暇って、当たり前にあるものだと思っていましたが、そうじゃないんですね。
それでも夏休みを取ることは推奨されていて、有給休暇でそれをまかなっている人も多いようです。
そして、その夏休み、お盆に取る率は今も高いのだそう。
お盆はやはり、家族・親族で集まる行事として、ずっと定着しているんですね。
そういう家族・親族の集いはすでに無い夫ですが、お盆に地元に帰れば、友達と会うことができます。
実際夫は、お盆には必ず中学校時代の友達とゴルフに出かけています。
そんな夫とは違い、私には親戚も友達も、一切のそういう集まりが無いので、お盆というワードは縁のないものとなっています。
日本人の主たる信仰宗教は、神道と仏教だということです。
仏教は誰もが知るお釈迦様が開祖ですが、神道では開祖はなく、自然であったりご先祖様であったりを崇拝するのだということ。
よく、お天道様が見てるよ!とか言われて育ちましたが、これにもちゃんと理由があったんですね。
開祖が無い神道の最高頂点の神は天照大神であり、仏教のそれにあたる仏は西方浄土を司る阿弥陀如来でしょうか。
でも、八百万の神が存在している神道では、ご先祖様も神となって、皆を見守るという教えなんですね。
神道にも仏教にもお盆があり、お盆の期間にご先祖様を迎えて、お盆が終わるとご先祖様は帰っていくということ。
でも仏教の場合は、ご先祖様は普段は浄土にいるということですが、神道の場合は、いつも自分たちのそばにいるという考えなのだそう。
それじゃあ、自分のご先祖様はいつもどこにいるのか。
これ、ずっと疑問だったんですよね、子どものころから。
今、ここに書きこみながらも、いろいろと調べながらではあるのですが、実に難しい。
私の父方は、代々続く墓石が7基立っています。
江戸時代では、民間人でありながらも、名字帯刀が許されていた身分だったので、そのお墓のそばには、我がご先祖様に使えていた人たちのお墓もあり、私たち家族は、お彼岸とお盆には欠かさずお参りして、すべてのお墓に手を合わせてきました。
そのうえ我が家には、仏壇もあり、神棚もあり、このような祖霊舎なるものがありました。
毎朝仏壇に手を合わせ、神棚には決められた日に榊とお酒をお供えする。
そういえば、けがれがあるということで、生理期間中は神棚に向かうことは禁じられていたので、嘘をついてさぼったこともありました。
当たり前のようにそうして過ごしてきましたが、なぜにそうなのかなんて、考えれば考えるほど不思議なことで、今こうして分析しても、不可解なこと。
お墓があり、神棚があり、祖霊舎があり、仏壇もある。
どれかひとつに、統一してもいいんじゃないの?
いちども聞いたことはないけれど、おそらく私の父は、これを慣習として続けてきていて、そういう疑問を持つことすらなかったのだろうし、なにしろ続けていれば安心だったのでしょう。
先祖を敬うことに、疑問を持つことのほうがおかしなことなのでしょうから。
でも、一度なんだろう?と思ってしまった私、いろんな矛盾に耐えきれなくなってしまいました。
今となっては、お墓参りもせず(まあ実母と折り合いが悪いということもあり)、自分の骨もどうにかうまく処分できないかと、考えあぐねる日々でして。
その後も、私の考えはどんどんとぶっ飛んできてしまい、話せば誰もがドン引いてしまうと思われ、ここでも本音をさらけ出すことができないほどになっています。
我が家自体は、お墓を作っていません。
数年前に夫の両親がたて続けに亡くなり、墓地は用意されていたので、そこに墓を立てるつもりだった夫とかなり揉めました。
当時墓を立てるお金もなく、それよりなにより、私自身がお墓を持つことにどうしても抵抗がありました。
中高生だった子どもたちも話に加わり、かなり突っ込んだ話をしました。
これからの時代、墓を持つことは重荷になるという私たち3人と夫とで、しばらく話がまとまりませんでしたが、夫自身の遺骨をどうしたいのかという問いで、一気に決着が着きました。
夫は、自分の両親のお墓は用意してあげたい。
でも、自分のお墓は要らないというのです。
子どもたちに迷惑はかけられないからと。
だから、親のために作った墓は、自分が最後に更地にして死ぬとまで言っていたのですが。
そのお墓を作る費用、それを守る労力、そして将来的にそれを閉める費用。
現実的に考えたら、たった20~30年で閉めることがわかっているなら、やめたほうがいいという結論に夫がようやく納得して、義両親の遺骨は合祀墓に納骨することに決まりました。
子どものころから、お墓参りなどしたこともない夫と、そういうものにずっと縛られてきた私。
こんなふうに真逆の発想になるものなんだなと、不思議に思いました。
ちなみに、私の両親はまだ健在。
父は養子に出されているので、7基立っている本家のお墓とは別に、もうひとつお墓がありました。
そして数年前に、その墓を閉めて、永代供養に申し込んだようです。
もうすでに、かなりの金額を支払い、合祀墓にも名前が刻まれていて、いつでもそこに入ればいいようになっているんだそうで。
不謹慎かもしれませんが、私の実家が、これまでお寺やお墓や神仏具などに費やしてきた総額は、おそらく1000万円は楽に超えているだろうと考えられます。
お金だけじゃなく、時間もそう。
以前も書きましたが、父の人生は墓守としての時間が相当な割合を占めていたような気がします。
まあ、これもご先祖様を敬う気持ちが強いからであり、私のように損得勘定のようなものが脳裏によぎり始めたりしたら、バチが当たってしまうかも。
でもね。
生きている時間を生きていない人のために使うよりも、生きている人とできるだけ楽しく共有することのほうが、私にはとっては大事なこと。
ご先祖様もしっかり敬うけど、自分の人生も大事にする。
これがうまく両立していれば理想なのですが、必ずしもそうはうまくいかないものであり、実際に、私の実家では偏りがかなりあったなあと感じていましたから。
そして。
私の本音を、ちょっとだけ書くと。
どんなに愛し合っている家族でも、生きているときだけの付き合いだと割り切っています。
そして、死んでしまえば、遺骨も遺灰も、守ってもらうことは不要。
だからこそ、大事な人とは、今生きているときに精いっぱい愛し合うこと。
つまらんことで意地を張ったりせず、精いっぱい言葉をかけあって、抱きしめて、一緒に生きた証を残すこと。
そして、存分に愛を与えた後は、跡形もなく消えること。
それが私の望む終わり方なんです。
だから、もう一度この家族に再び出会うことも望んではいません。
一緒に生きたという達成感があるから。
唯一、最後の最後になって、息子の病気や娘の独り身の将来を案ずることは予想はされますけどね。
父のような生き方を否定するつもりはないですし、私の考えが正しいとも思いません。
人の生き方、考え方は自由ですから。
でも、父の生き方があったから、今の私があるとは思えます。
ただ、これを夫婦や家族で共有しあえるかは、とても難しいところで、互いの気持ちを尊重するしかなく、最後は、自分のやり方をできるだけ迷惑をかけずに言い残すことしかできないですね。
そう、生きている間の争いごとは極力無くしたいので。
全部を決して話すことはできてはいないものの、私のこの合理的な考えを、いちおう子どもたちは柔軟に受け入れてくれているので、私の最後の希望はかなえてもらえそうです。
私の遺骨は、海洋散骨もあまり気が進まないので、できるだけ処分してもらえるようにして、子どもたちが希望すれば、手元供養にしてもらおうと思っています。
夫の希望は、両親と同じ場所の合祀墓。
お参りは一切不要だと子どもたちには言い残すのだそうです。
なので、2人とも葬儀は無しで、シンプルに火葬式。
夫の場合は、没年齢によっては仕事関係の弔問もあるので、それで対応できるかわからないですが、私などは、明日死んでも今の家族と実姉だけしか知らせる人も無く、だから火葬式で十分。
葬儀社も、対応してくれる仲介業者に依頼しておくつもりです。
きちんと生きられれば、あと20年も先の話ではありますが。
まあ、なにかの拍子に、コロッと考えが変わっていたら笑ってやってください。
