コロナの話題も今は面倒になってきています。
当初からウイルス受け入れ態勢であった私と子どもたちは、自粛とか医療崩壊だとかという世の騒ぎを、非常にばかばかしく思っていました。
いつもそれに対して反論して、歯向かって、自分たちの立ち位置を再確認していましたが、今やそれすらも疲れてきたので。
もう、フラットです。
誰にも文句は言わないし、あ~だこ~だも論じたくないし、それを聞くのも疲れる。
一度しかない人生です。
私自身は老いるばかり、子どもたちはかけがえのない若いとき。
こんなことで1年も2年も立ち止まるなんて、どうにもこうにも許せないんですよね。
前に進むこと、目標や夢を打ちたてて、そのために毎日を生きるという活力、これをどんどんとしぼめられてしまったら、つまらない人生になっちゃいます。
知っていますか?
人は順応して生きていくものだということを。
この縮こまった生活に慣れてしまって、大きな青い地球に生きていることを実感できない日々を次第に受け容れていくなんて・・ぞっとしますね。
もう、いいじゃないですか。
怯えていても、普通に暮らしていても、ウイルスは無くならないのだから。
抵抗するから辛いんです。
と、また吠えたところで。
しんみりとした話になります。
最近竹内まりやの「駅」、よく聴くんですね。
滅多にテレビのスイッチを入れない私とは違い、夫は帰宅すると同時にテレビをつけるので、否が応でも音声は私の耳にも入り込んできますが、ここ数日で、2度この曲を何らかの番組で聴きました。
いやいや、心が震えるという気持ちを、しばらくぶりに味わいました。
なんて切ない歌なんでしょうかね。
若かりし頃に聴いたのとは少し毛並みの違う切ない感情が、ドカンと押し寄せました。
私自身は、恋人関係を終わりにさせたということは若かりし頃には2度あり、そのうちひとつがこんなふうに思いを残す経験だったかもしれません。
「かもしれない」と書いたのは、あまりに遠すぎる過去であり、いつも前を向いて突進していく生き方をしている私には、過去はほぼすべてがお蔵に入っている状態なので、あまりよく覚えていないということです。
もう、女でも男でもどっちでもいいという生き方をしている私にとって、現在進行形の恋愛感情なんてものは全く理解できないのですが、過去にはそういう経験もあったので、こういった昔の切ない曲によって辛うじて女性であったことに気づかされたりします。
これまた切ないことですが(笑)。
もっと切ないことと言えば、あまりにそういった感情から遠のきすぎて、疑似体験の方がそれをがっつり感じることができるということに気づいてしまったことでしょうか。
実は、息子が最近彼女と別れました。
お泊りデートもして、仲良くやっていたので、まさか別れたいと考えていたとは思いもせず。
ただ彼女の性格については、「ネガティブ、後ろ向き・・」といったワードをよく使っていました。
最終的に、息子が別れ話を切り出し、数時間の電話の後お別れをしたようですが、その電話の前に少しだけ私と娘に相談をしてきました。
どうしたらあまり傷つけずに別れることができるのかと。
そうだね・・
なにしろ悪いのはすべて自分だということにして、できるだけ傷つけないであげてほしい。
娘もいろいろとアドバイスをしていましたが(彼氏いない歴20年)、別れを切り出されて、傷つかない人はいないはずです。
どうしても仕方のないことなのでしょうね。
そんな話をした夜に、夫がつけたテレビで竹内まりやのこの歌がジャストタイミングで流れてきて。
胸が締め付けられるような思いがしました。
自分のことでも、自分の娘のことでもないのに、別れを切り出された息子の彼女の辛さが想像できて、がっつり支配されてしまったようで。
この歌が脳内リフレインされて、涙も出てくる始末。
ちなみにこの駅という歌、中森明菜のアルバムのために竹内まりやが作った曲だということですが、竹内まりやが歌った「駅」と中森明菜の「駅」では、歌詞の意味が違うということです。
大きく分かれたのは、二番の歌詞のこの部分。
「今になってあなたの気持ち
はじめてわかるの痛いほど
私だけ愛してたことも」
今になって彼女は、彼は私だけを愛していたとわかったのか。
それとも一方的に彼女だけが彼のことを愛していて、彼はそれほどではなかったということだったのか。
竹内まりや的には前者。中森明菜的には後者。
歌の内容が違ってしまったということです。
前者の内容だと、彼女はきちんと愛されていたのに、それを素直に受け取れずにもつれて別れてしまったが、今になって私は彼にきちんと愛されていたんだと気づいたという内容。
それを証拠に、駅での彼の後姿を見て、
「消えていく後ろ姿が
やけに哀しく心に残る」
と歌っています。
これは、女性が今現在、きちんと吹っ切れてしっかりと歩んでいるからこその表現で、どちらかというと女性側の上から目線的な印象を受けます。
それに対し、中森明菜版では真逆で、私だけが真剣に彼を愛していたという内容なので、それだと今の彼の後ろ姿を哀しく思う余裕はないのではないかと推測されます。
私的にはこの歌の主人公が、竹内まりや版のすでに強く歩み出している女性像なら、全体のつじつまが合うと考えられ、そういう認識でいるのですが。
どうなんでしょうかね。
というわけで。
脱線しましたが、息子の彼女の話に戻ります。
彼女の気持ちがこの歌とオーバーラップしてしまい、別れ話を聞いてからなんだか関係のない私がしばらく落ち込んでいました。
哀しい思いをしているだろうなあ・・
ひとりで耐えているんだろうなあ・・
想像してはかわいそうだなとため息が出たりして。
そんな思いが2日ほど続いたのち、それでもなんだか気持ちが晴れない理由に気づきました。
どうやら私の中では、彼女のことを可哀そうに思う気持ちから、息子に彼女がいなくなってしまったことをさびしく思う気持ちに変わってきているようです。
なぜだか私が喪失感を強く感じているようで。
息子に彼女がいるということが、私的にはとてもうれしかったのでしょう。
このまま結婚もあるかなあなんて、考えたりもしていましたから。
1週間近くが過ぎて、ようやく私の気持ちの整理もつき、竹内まりやのリフレインもおさまりました。
彼女は少し元気を取り戻してくれているでしょうか。
それを私が聞くことはこの先ありえないのでしょうが、できるなら彼女には、近い将来素敵な出会いが待っていてほしいなあと思い、願っています。
おこがましい話ですがね。
そして我が息子にも、自分に合った人にきちんとめぐり会うことができますように。
あ、彼氏いない歴20年の娘にも!今年こそはいい出会いがありますように!