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死への恐怖

昨日ワイドショーで、西郷輝彦さんが亡くなったことを知りました。

コロナ禍の中、オーストラリアに渡り、がん治療をしたそうですが、結局残念ながら克服はできなかったということです。

その様子を動画にしていたようで、一部を放送していましたが、オーストラリアに渡る際、西郷さんがこんなことを話していました。

「75歳まで生きられたんだから、もういいじゃないかという人もいるが、俺はまだやりたいことがあるんだ」

なんだか妙に私の心に刺さりました。

少し前の私。

もういいじゃないか派でした。

好きなように生きてきて、大好きな子どもたちと過ごし、充分に生きたじゃない、私。

70年くらい生きられれば御の字。

後悔ないでしょ?

でも、西郷さんの言葉に感じた生へのこだわり。

今はそれを、私も感じているんです。

ひと言で言えば、まだまだ生きていたい、死にたくはない。

50代後半ではもちろんこと、75歳になってもおそらくそう思っているはずです。

この1年で、自分の体調があまりに悪く、死を意識することもありました。

そして息子の病気。

死ぬということ、死ぬ恐怖ということを今までになく、身近に感じた1年でした。

死ぬのは単純に、とてつもなく怖いことー

 

死ねば虚無。

先日亡くなった石原慎太郎さんの言葉です。

死んだらね、何もないわけですよ。

そう、私も同じようにずっと考えてきました。

以前にも書きましたが、NHKの「映像の世紀」で、ナチスによって殺害されたユダヤ人の死体が山のように積み上げられた映像を見たときに、これが人間なのかと衝撃を受けました。

これじゃ動物、いやいや虫けらと同じじゃないか。

その時に思いました。

これは人間のおごりだと。

虫けらから見たら、お前ら人間も同じなんだよと。

命は虫けらも動物も俺さま気取りの人間も、平等にひとつであり、やがてはこうして積み上げられた死体と化す。

家族や友人の死を悲しみ、弔う人間の行動は、これは残された人のためのもの。

当の本人は、死んだら虚無。

だからこそ、生きている間にたくさん思い、考え、慈しみ、謳歌する。

限りある時間を、めいっぱい生きる。

75歳になっても、しがみついていたければしがみつく。

だって、命が閉じたら、何もできないから。

 

あらためて、自分が能天気だったんだなあと感じました。

死への恐怖を、50代後半まで考えたことがなかった。

これまでに、友達や親戚の死もありましたが、それは私の中に変化をもたらしてはくれませんでした。

自分は違うところにいると勘違いしていたのでしょう。

自分が健康で、元気であったこと。

ここが崩れかけてきて、自信に陰りが見えてきた。

そして先の見えにくいコロナ禍であることで、夢や希望を持つことさえ制限されてしまった。

奮い立たせようという気持ちが無ければ、奮い立つことができなくなった。

それを今、とても感じています。

ただただ自分のこれまでは、傍若無人のフリーな人生だったということなのでしょう。

 

50年かかってそういう境地になった私。

対して。

私の大事な息子は、それを20代という若さで、すでに感じているということ。

人が皆平等だというのなら、能天気で生きてきた私には、これから相当な罰が待ち構えているに違いありません。

それもまた恐怖で。

 

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