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今どきニュース・旅行記・大学生&社会人の子ども情報など、50代女子のよろずブログ。

息子の受容

なんだかね・・

 

昨日の夜、3人で夕ご飯を食べながら、録画してあった日曜劇場の「日本沈没」の第2話を見ました。

首都機能を移すこと。

ドラマを見終えて、これについて3人で激論を交わしました。

コロナのおかげで、オンラインという機能がクローズアップされ、これは首都機能の移転構想に大いに役立ち、今こそバックボーンネットワークを構築できるきっかけになるのではないか。

素人3人が夢中でそんな話をしていたら、いつの間にか息子の仕事の話になり、そのあと最終的に息子の病気の話に移っていきました。

 

息子の苦しみはひとつですが、憂いの種類はいくつかあるようです。

今の自分の仕事に誇りを持っている息子。

でもいつか来るだろう移動の通達に、不安も持っています。

息子は、主治医が居て、私が居て、サポートをきちんと受けられる今の状況を変えることには大きな抵抗があります。

それは当然。

私だって、爆弾を抱えている息子をきちんとそばで見守っていきたいですし。

病気を盾に移動を拒めるだろうと息子は簡単に考えていたようですが、大きな組織の中で、個人の事情などは汲み取ってもらえるはずがありません。

それどころか、病気を盾にした瞬間に、戦線離脱者となる確率の方が高いわけです。

今こうして、誇りを持って仕事ができている状況を変えたくないのであれば、健康な人といつでもいつまでも肩を並べて歩いていなければいけないわけです。

先日、糖尿病の女性がパートに出ようとしていたら、何気に断られたという話をネットで見かけました。

病とは厄介なもの。

なりたくてなったわけでもないのに、いつでもそうなる可能は誰にでもあるのに、社会の中で受けとめてはもらえない。

それでも、時々発する息子の言葉の端々から、病気を盾にしたい気持ちが垣間見えます。

そういう気持ちはとてもよくわかる。

戦っている自分を理解してほしい。

自分の辛さをわかってほしい。

希望の大学に入り、青春を謳歌して、就活浪人はしたものの、自分なりに誇れる職場で働くことができた。

その先に待っていたのが、わけのわからない不治の病であり、いつ心臓が止まっても理由が見当たらないという状況ではなくなった。

道端で倒れたら、ああ、これがきっかけだねとすぐに原因がわかる。

倒れることが何の不思議でもないという今の現状。

ここに辿り着いてしまった息子の無念さは、私の想像をはるかに超えるものなんでしょう。

息子は冷静で、私より数歩も先を歩いているように思っていましたが、きちんと受容はできていないんだなあと感じました。

そもそもこの場合においての受容というのは何なのか。

極端に言えば、いずれ来る死を受け入れること・・

死は心臓が止まる死だけでななく、これまでの活動が止められてしまう状態も含めてだとすると、誰でもそれを受け容れることは相当の覚悟が必要です。

それでもいつかあるそれに向かって、一歩ずつ歩いていっている今。

もちろん、誰にでも平等に死は訪れますから、万人がそれに向かって歩いているわけです。

大きく違うのは、それを意識せざるを得ないということ。

私たちは死を意識しながら毎日を生きているわけではないですが、息子はそれを通常よりも頻繁に意識しながら生きていかねばならないということ。

そこなんだろうなあ・・

そのビクビク感は、優しく諭しても、ガンガン叩いても、どうしようもないこと。

 

昨日は怒鳴り合いに近い言い合いをしました。

お前になんか俺の気持ちがわかるわけないと心の中で叫びながら、愚痴をこぼすのはやめてくれ。

どうしようもないことなんだから、受け容れて一歩を踏みだしてくれ。

怖いかもしれないけれど、うまく気持ちをコントロールしながら病気と共存していくしかない。

そのうえで、本気で私に愚痴をこぼし、本気で生きてくれ。

怒鳴りながら、涙が出ました。

息子のことでは泣かないと決めたのに。

徹することができない自分に、息子を諭す資格なんてないですね。

素直で賢い息子は、私の暴力的な言い方に腹を立てただけで、最後はきちんと謝ってくれます。

どうやっても、息子の憂いや不安は取り除かれることはないけれど。

生きている甲斐を、生きている証を感じながら日々を過ごしてほしい。

今の息子にはそれしか言うことができません・・

 

そして、いっつもそうだけど強すぎる私、もう少し寄り添わなくちゃいけないですね。

娘に言われたことがあるんです。

お母さんはいつも正しい。

でもそれが強すぎると。

はい、そうですね。

コントロールが必要なのは私なんです・・

 

息子、念願のフランスに行こうぜ!